写真参照:Gulf International Forum
マルハバン!
1990年8月2日はイラクがクウェートに侵攻した「クウェート侵攻」の日です。
クウェートでは ”Iraqi Invasion”と呼ばれます。
毎年この日が近づくとテレビやSNS、ショッピングモールなどでクウェート侵攻や湾岸戦争で犠牲になったクウェート人捕虜POWsを追悼する投稿やモニュメントを目にします。
そもそもクウェート侵攻がどのような経緯で起こったかご存知の方は、ビートルマニア世代ではそう多くないでしょう。
これからビートルマニアがわかりやすく簡単にご説明します。
クウェート侵攻が実際に起こるまで、クウェート側は誰もまさかイラクが本当に侵攻してくるとは思っていなかったようです。
イラクは、イランイラク戦争の長期化によりクウェート政府に多額の借金をしました。
その借金をクウェート側が返済要求をすると、当時のフセイン大統領は借金を返済するどころか同じアラブの同胞ならもっと援助しろと要求してきました。
イラクが強気なのも、当時湾岸アラブ諸国の中でイラク軍はずば抜けて軍事力を保持していたからでした。
膨らむ借金に加え、当時イラクは原油価格の低下はクウェート政府が石油を過剰生産しているためだとしてクウェートを批判し、過剰生産を止めなければ軍事介入すると脅しました。
他のアラブ諸国が介入し、クウェートとイラクの関係を改善させようと試みますが溝は深まるばかり。
クウェート侵攻2日前の7月31日、フセイン大統領とクウェートの代表はサウジアラビアのジッダで会談を行い、クウェート側は今回の会談を今後の交渉を続けていく上での第一歩と定義したのに対して、イラク側はクウェートのボビヤン島の割譲と借金の帳消しを要求してきました。
もちろんクウェート側は拒絶します。
この日にフセイン大統領は開戦を決意したとみられます。
侵攻前にイラク側はスパイをクウェートに送り込み、主要な政府機関を調べました。
1990年8月2日午前1時、イラク軍は国境を超えてクウェートに侵攻しました。
主要な政府施設は侵攻から5時間以内に占領され、フセイン大統領は8月4日に「クウェート共和国」として暫定革命政府を樹立させました。
侵攻当時、多くの首長一族は隣国のアラブ諸国に逃亡することに成功しましたが、お一人だけ宮殿に残った当時の首長シェイク・ジャービルの弟のシェイク・ファハドは殺害されました。
イラクはクウェートをイラクの19番目の県だと主張し、クウェート県と名付けました。
国際社会の反応はというと、侵攻当日の8月2日のうちにイラク軍の即時無条件撤退を求める安全保障理事会決議が採択されたものの、イラクがこれを無視したので国連安全保障理事会はイラクに対して経済制裁を義務付ける決議を採択しました。
実質、アラブ諸国だけでこの危機を乗り切ることは不可能でした。
イラクから直接的な脅威を受けていたサウジアラビアのファハド国王は、西側諸国及びアラブの同盟国に対して軍隊の配備を要請し、侵攻から5日目の8月7日にはアメリカ軍に対して湾岸地域への展開命令が発令されました。
いかがでしたか?簡単ですがこれがイラクのフセイン大統領がクウェートに侵攻した経緯になります。
次回はクウェートの勇士たちがどのようにしてクウェートを奪還しようとして戦ったのかをまとめたいと思います。
記憶にない、生まれてない読者の皆さんも多いと思いますが、どうか世界中の皆さんがこの日だけでもクウェートに思いを馳せていただけると幸いです。
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アラブニュースジャパン クウェート侵攻